先週の木曜は、次男の6歳の誕生日でした。ついこの間、長男が6歳だと思っていたら、次男がもうその年になったとは...ホントあっという間な感じで、ビックリ!!! 彼がここまで成長できたのは、ただ神様のあわれみと恵みのゆえ、また皆さんのサポートのおかげです。 ありがとうございます。今後とも、よろしくお願いします!
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今日の礼拝では、コロサイ書2章16-23節から「キリストとともに死んだのなら」という題でメッセージを語りました。ここではコロサイの教会が受けていた異端的な教え(ユダヤ主義的、ギリシャ哲学、禁欲主義、天使礼拝など)に対して、その教えをする人々から批評されたり、不適格と見なされてはいけないといった注意がされています。主イエスを救い主と信じ、彼の死と復活にあずかるバプテスマを受けた人は、この神であられる方と一つにされています。それゆえに、この方にあってすでに満ち満ちた者とされているのです。ですから、もはやこの世の教えや戒めに縛られる必要はありません。キリストにある者は、すでにこの世に対して死んでいるからです。 今日のメッセージはこちら→クロスウェイ教会 アメリカでは、年度末を迎えています。私の妻と姉がリードする子ども聖歌隊も、今年度のクラスを終えました。残念ならがら2人のレギュラーメンバーが参加できませんでしたが、最終回は親御さん達も加わり、楽しく、幸いな時をもつことができました。子ども聖歌隊の難しさの一つは、6年生になる子ども達がユース(中高生)ミニストリーに移っていくことです。今回は、4人の子ども達がユースに加わります。なので、夏休み後は、また最初から取り組むといった感じです。でも、何かを成し遂げることよりも、同じ目的(キリストをあがめること)のために、共に時間を過ごし、協力し合うことで、神様によって成長させられることこそ、何よりの喜びです。愛と祈りをもってサポートして下さった皆様に心から感謝します。ハレルヤ!
買物に行くと、最初は元気でも、途中でこうなってしまうことがよくあります。三男は、笑顔ですが、もう歩けないから抱っこと言うので、仕方なくカートの中へ。結局、すぐに出たいと言うのですが。長女は、はじめてこんな状態に。抱っこしながらカートは押せないし、ストローラーを取るに帰るのにも大変なので、一時的にこんな状態に。すやすや寝ていました(苦笑)。自分は親になるまで、他の親の気持ちがわからず、「なんでこうしないのか、ああしないのか」と子どもへの対応を見てどこかさばきの心をもっていたように思います。今、その気持ちが少しかわかるような気がします。誰もが励ましを必要としていますが、特に、子育て中のお母さんやお父さんを見かけたら、どうぞあたたかい眼差しを向けてあげてください。
今日の礼拝では、コロサイ書2章8-15節から「キリストにあって満ち満ちている」という題で、メッセージを語りました。キリストを信じて、彼につくバプテスマ(洗礼)を受けた人は、この神である方と一つにされています。それは彼とともに葬られ(死)、また彼とともによみがえらされる(復活)を意味します。そうは言っても、見た目には何ら変わらないように思えるかもしれません。でも、霊においては全く新しい存在、つまり、すべての罪が赦され、神の子どもとされ、永遠の御国(天国)を相続する者とされているのです。そして、今この世においても、キリストの恵みと御力がみことば(聖書)と聖霊を通して与えられることで、私たちはキリストにあって満ち満ちているのです。もしそのことを日々心から信じるならば、私たちはキリスト以外の何か(誰か、または物質や何か教えのとりこ)によって、自分を満たそうとする必要はありません。キリストによってすでに満たされているから、キリストがいつも私たちを満たして下さるからです。 (写真は、私たちの子ども聖歌隊が礼拝の後、近くのリタイアメントホームに、賛美の奉仕に出かけた時のものです)。
今日のメッセージはこちら→クロスウェイ教会 長男の二年生、次男の幼稚園の終業式がもたれ、家族で出席してきました。わが家はホームスクールなので、一般の学校とは違って、とても少人数(小規模)ですが…一応、年度の終わりなので、こういった式が行われると、親にとっても、子どもたちにとっても励みになります。場所は、近くの教会(これは毎年のようにかわります)。今回はナザレンという群れの教会をお借りしたのですが、ここには韓国語教会もあって、韓国の人のクリスチャン人口の多さを思わされました。私たち日本語教会は、この町にはなく、私も隣の町(といっても大きな地域ですが)で牧師をしています。
話が終業式からずれましたが、また一年、先生として、母親として子どもたちを愛し、教え、導いてくれた妻に感謝。また、ママにしかられながら、毎日勉強に励んだ子どもたちに「良くやったね」と言ってあげたいです。何よりも、私たちの家族を日々恵みをもって導いて下さった神様に感謝!そして、私たちをサポートして下さっている皆様に感謝です。 今日の礼拝では、コロサイ人への手紙2章1-7節から「キリストにあって歩みなさい」という題でメッセージを語りました。キリストにあって歩むとは、この方の中に根ざし、また建てられることだとパウロは言いますが、私たちはその歩みが、自分にとって力となるということ、つまり、イエス様にあって歩むことが励ましであることを知る必要があります。そのために、2節でパウロが言うように、私たちはキリストを真に知る必要があるのです。この方が、どのようなお方か、いかに栄光に富んでおられるか(一章に記されています)を知る必要があります。そこから、神様に対する確信と救いに対する確信も与えられるのです。つまり、それは私がイエス様を愛したからというものではなく、イエス様が私を愛して下さった、また愛し続けてくださっているので、今の私は救われている(または救われる)という確信です。愛によって結び合わせられるとは、何よりも、イエス様の愛によって、彼と一つにされているということではないでしょうか?その確信に達すると、私たちは、自分の正しさやがんばりを主張する必要はなく、いつでも神様のあわれみと恵みの中で憩い、力を得、愛の生き方へと向かうことができるのです。主イエス・キリストという方を知るなら、あなたの心は励ましを受けます!
今日のメッセージはこちら→クロスウェイ教会 今日は牧師会。いつものように5時半発で、会場近くのスタバに来ています。今回は、来月の修養会のためのミーティングをN牧師ともちました。すると、教会のJ姉とバッタリ。家から一時間以上も離れた地で同じ教会の方と会うとは…(驚)。ミーティング後、他の仕事をするには、時間がないので、ブログをアップしています(笑)。 今朝の聖書通読のひとつの箇所の紹介します。 申命記12章28節「気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、【主】がよいと見、正しいと見られることをあなたが行い、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである」。 神様の命令に従うというと、どこか堅苦しく、束縛されるイメージをもたれるかもしれません。でも、それは親がわが子に命じるようなもので、わが子を愛するからこそ、何でもあり、好き勝手にしなさいではなく、教えや戒めを与えます。神様もそのようなお方で、私たちを愛するからこそ、私たちのしあわせを望んで下さるからこそ、私たちに命令を与えられます。でも、たとえその愛を知ったからといって、私たちは神様のすべての命令に聞き従うことはできません。私たちのうちには自己中心な思い(罪)があるからです。でも、神様のひとり子イエス様が、神様の命令(みこころ)をすべて守り通され、また私たちの罪をすべてその身に負うことで、十字架で贖いの死を遂げてくださったので、主イエスを救い主と信じる者には、救い(罪の赦し、永遠のいのち)が約束されています。信じるだけで救われるなんて、信じられないと言われるかも知れませんが、それは私たち人間の側のことであって、神様のほうでは、私たちを救うためにご自分のひとり子イエスのいのちという大きな大きな代価(代償)を支払ってくださいました。あなたは主イエス・キリストをご存知ですか?
去る火曜日は、AWANAクラブの最終日。長男は4年目、次男は二年目を終えました。毎週、みことば(聖書)を覚えていくのは(以前のものを覚え続けるので)、やさしいものではありませんが、二人ともよくがんばりました。子どもたちもそうですが、何よりも妻がよくやってくれました。妻に感謝!子育ては、親にとっても成長の機会なので、これも神様から与えられた特権として感謝しつつ、これからも喜びをもって続けていきたいと思います。ハレルヤ!
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Authorロサンゼルスの最北端の町サンタクラリタに住むキリスト教会の牧師です。一昔前にCOCで学生をしていました。まさか、再びこの地に戻ってくるとは! CategoriesArchives
April 2024
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