今日の礼拝では、テモテへの手紙第一1章12-20節のところからメッセージを語りました。使徒パウロが、「『キリストは罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」と記しているところです。そのすぐ後で、彼は言うのです。「私はその罪人のかしらです」と。私たちは自分のうちに欠けや汚れを見つけることがあっても、自分を他人と比べることで、まだ自分は良い人間、ましな人間だと言えてしまいます。なぜなら、自分よりも劣る人と自分を比べるからです。でも、義なる神様の前に、その聖い神様の光を通して自分を見ようとするなら、内側にある汚れ、醜さといった罪は明らかになります。それに目を当てることは決して喜ばしいことではありません。でも、自分のうちに望みがないことを知るなら、キリストは罪人を救うために来られたという意味が、キリストが罪人のこの私(自分)のために十字架にかかってくださったというメッセージが、良い知らせとして迫ってきます。礼拝で語られたメッセージはこちらから→クロスウェイ教会 |