今朝、聖書学院時代の先輩(42歳)が召されたことを知りました。悪性のリンパ腫で、一年ほど闘病生活を送っておられました。その先輩とは、昨年9月に会うことができ、元気になってアメリカにも来てくださいね(一度は行ってみたいとおっしゃっていたので)とやりとりをし、今回の訪日でもできれば、この月曜日に会うつもりでいました。ところが、病院での検査や実家が名古屋駅から遠いという理由で、今回は難しいかなと言われたので、無理を言うのもと思ってあきらめました。そのメールのやりとりから一週間ほどで彼は先に天に召されて行かれました。イエス様へのその信仰のゆえに、天国に移されたという確信と平安をいただきつつも、でも奥様や息子さんのことを思うと、なんとも複雑な思いでいっぱいです。
さらに今朝、母親からの連絡で、祖母(今回見舞いに行った)が、最期は自宅でということで、一旦帰宅したが、その夜にまた入院した、という知らせを受けました。来月迎えられるかどうかわからない状況とのことです。アメリカに戻る前に祖母に会ったのは、この月曜日。イエス様のこと、天国の希望を伝えたいという願いで急いで日本に行きましたが、ほとんど話もすることができず、また苦しそうな祖母を前にしては、だまって手を握るくらいしかできませんでした。ただ、これまでの感謝だけは伝えようと、最後は涙ながらに「ありがとう」と何度も伝え、帰路に着きました。
人は自分では何でもわかったつもりでいます。自分は強い者、力のある者、救い主なんて必要ないと思います。でも、人は本当に小さな小さな存在。この世界がどのようにして造られ、自分自身も何のために生きているのか、また死んだらどうなるかなど知らないにも関わらず、「神様はいない」と確信をもって言い切れてしまう。自分もかつてはそのような者でした。でも今は、どんどん自分の小ささを思い知らされています。いくらでも意見することはできても、自分が人を変えることはできない。自分さえ、変わろうと思っても変えられない、惨めな者だと...。ただただ神様のあわれみを祈るばかりです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)