今日の礼拝では、ピリピ人への手紙2章1-11節からメッセージを語りました。この手紙の著者パウロは、教会の一致のために互いにへりくだることを勧めていますが、私たち自己中心な者の心が砕かれるには、主イエス・キリストのへりくだり(神のあり方を捨て、ご自分を無にし、仕える者となられた、人の性質をもって現れ、ご自分を卑しくし、実に十字架の死にまで従われた)を知らずしては起こりません。キリストの十字架の前にひざをかがめ、主がそこまでへりくだられた理由が、実に罪人の私のためであったことを認める(受け入れる)ところから、本当のへりくだりの心構えは生まれると思います。 本日のメッセージはこちらから→クロスウェイ教会 |
今日の礼拝では、ピリピ人への手紙1章12-26節からメッセージを語りました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」と使徒パウロが語っているところです。ひとりのクリスチャンとして、また牧師として、自分はそのような者であるか?と心探られました。私たちは、そのように自分で努力し、思い込むことで、このように考え者、生きる者とはなりません。でも、キリストのすばらしさ、その恵みに心の目が開かれるなら、主をあがめる者(大きくする者)ととなると信じます。そのようにして、主の大きさを知る(同時に自分の小ささに気づかされる)ならば、生きることはキリスト、死ぬことも益となると思うのです。今日のメッセージはこちら→クロスウェイ教会 今週は、月に一度の教会リーダーミーティング(長老会)と牧師会(オレンジ郡教会で)があったため、いつもより少し忙しい一週間を過ごしました。四人目の出産のため、今学期の長男のサッカー練習(ホームスクール仲間で)の送り迎えは私がしていますが、今週は、その合間に次男と三男を連れて、買物(わが家の男の子たち、たくさん食べます)に行き、そこにあるダックパーク(勝手に名づけました)で餌をあげ、銀行(子どもたちはキャンディーをもらい)に行きました。写真を見ると、長男はとても小柄ですが、あるお母さんが彼のアグレッシブさを見て、「家でも練習している?」と聞くので、「特に何も」と答えると、目をかけてあげてと言ってくれました。自分はそのように声をかけることはないので、そのお母さんの気遣いというか、その心に感謝でした。たった一言でも、それが大きな励ましになることを学ばされた時でした。
今日は日本の仙台教会(夏に短期ミッションチームを昨年と今年送りました)より、中田牧師が来てくださり、礼拝メッセージをしてくださいました。聖書箇所はマタイによる福音書6章12節(主の祈りの赦しの部分です)、メッセージ題は「不公平な神」、内容は「赦し」についてです。音声メッセージはありませんが、原稿をホームページにアップしていますので、よかったらお読みください。クロスウェイ教会 今日から礼拝では、ピリピ人への手紙を見ていきます。この手紙は、パウロが牢の中から、ピリピにある教会に書き送ったといわれています。その特徴の一つに、パウロがその獄中にあっても「喜んでいます」と言い、また、外にいるクリスチャンたちに「喜びなさい」と励ましていることがあげられます。その喜びのもと(主イエス・キリスト)について見ていきます。
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Authorロサンゼルスの最北端の町サンタクラリタに住むキリスト教会の牧師です。一昔前にCOCで学生をしていました。まさか、再びこの地に戻ってくるとは! CategoriesArchives
April 2024
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